昭和天皇の娘たち、池田厚子(いけだあつこ)と島津貴子(しまづたかこ)は、皇籍を離脱しながらも、それぞれの人生で波乱に満ちた道を歩んできました。皇族として生まれながらも、彼女たちの選んだ道は決して平坦なものではなく、その生涯には多くのドラマが隠されています。今回は、そんな2人の波乱の人生に迫ってみましょう。
昭和天皇の第4皇女として1931年に誕生した池田厚子は、幼少期から厳格な皇室の教育を受けて育ちました。彼女は学習院で教育を受けた後、短期大学に進学。その後、池田高隆(いけだたかたか)との出会いが彼女の人生を大きく変えることになります。
1951年、厚子は中国・四国地方を視察した際に、岡山県の池田動物園と池田牧場を訪れました。そこで牧場経営者である池田高隆と出会い、彼との交流が始まります。当時の日本では、皇族の結婚に自由な恋愛が許されることは少なく、厚子と高隆の結婚も形式的には「お見合い」として進められましたが、2人の間には次第に愛情が芽生えていったとされています。
1952年、皇籍を離脱して一般人となるという決断をし、厚子は池田高隆との結婚に至ります。岡山県に新居を構え、一般市民としての生活をスタートしました。彼女は「牧場の妻」としての新しい役割を引き受け、動物園の運営にも関わるようになり、地元住民からも親しまれる存在となりました。
昭和天皇の第5皇女、島津貴子もまた皇籍離脱という選択をした一人です。1939年に生まれた彼女は、学習院で学び、その後イギリス文学を専攻しました。そんな貴子に運命の出会いが訪れたのは、島津久永(しまづひさなが)とのことでした。
久永は旧華族出身でありながら、サラリーマンとして働いており、貴子との結婚は当時としては異例のものでした。1959年、貴子は皇族会議を経て久永との結婚を決意し、皇籍を離脱することになりました。
この結婚は多くの国民にとって驚きのニュースであり、貴子が民間人となるという決断は大きな話題を呼びました。
新婚生活をスタートさせた貴子でしたが、その道のりは決して順調ではありませんでした。久永との間に吉久(よしひさ)という子供が生まれ、家庭生活は幸せなものに見えましたが、貴子は皇族としての注目を常に集めていました。彼女の公の場での言動やファッションはしばしばメディアに取り上げられ、一般人としての自由な生活を楽しむ一方で、世間の目が常に彼女を追い続ける状況にあったのです。
池田厚子と島津貴子の人生は、皇族から民間人へと移行する過程で多くの困難に直面しました。
池田厚子は、夫の池田高隆と共に地元岡山での生活を選び、動物園の運営や地元社会に貢献し続けました。彼女の決断は、皇族の「象徴」としての役割から一歩離れ、市民としての生活を送るという新しい時代を象徴するものでした。
一方の島津貴子は、久永と共に家庭を築きながらも、皇室の元プリンセスとして注目を集め続けました。彼女の結婚は、一般市民との結婚という点で注目され、多くの女性に自由な結婚の可能性を示した一例となりました。