戦国時代に数々の伝説を残した武将、真田幸村。その名は今もなお多くの人々に愛され、特に彼の戦術や信念は日本中で語り継がれています。今回の物語は、幸村の運命を決定づけた上田城での戦いと、彼の知られざる決意に迫ります。
まず、真田家の象徴として有名な「六文銭」についてご存じでしょうか?六文銭とは、亡くなった人が三途の川を渡る際に必要とされるお金を表すもの。戦場に赴く際、真田家の武士たちはこの六文銭を旗印に掲げ、自らの命を賭けて戦ったのです。つまり、戦場に出る時点で命を捨てる覚悟を持っていたという証なのです。
幸村もまた、この六文銭を家紋に誇りを持ち、数々の戦いに挑みました。
上田城といえば、真田家の本拠地として知られていますが、ここで繰り広げられた二度の戦いは、幸村の父である真田昌幸の卓越した戦術によるものです。特に「第一次上田合戦」は、少数の兵で徳川軍を撃退した伝説的な戦いとして有名です。
天正13年(1585年)、徳川家康が真田家に攻め込んできた際、真田軍はわずか2千の兵力で徳川の8千の大軍を迎え撃ちました。昌幸は巧みに地形を利用し、徳川軍を混乱させ、最終的に撤退に追い込んだのです。この勝利は、真田家が如何に優れた戦術家であったかを物語っています。
関ヶ原の戦いに先立つ慶長5年(1600年)、再び上田城は徳川軍の攻撃を受けました。この時、真田家は徳川家に対して反旗を翻し、西軍に味方していました。徳川方の2代目将軍、徳川秀忠率いる3万8千の兵が上田城を包囲するも、真田軍はたった3千の兵で城を守り切ります。
この第二次上田合戦での真田家の防衛戦は、まさに驚愕の一言。たった6日間の間に、城は一切落ちることなく、徳川軍は関ヶ原の本戦に間に合わず敗北する結果に。
真田家の巧みな戦術がここでも証明されました。
この上田城での二度の勝利が幸村の名声を全国に広め、彼の最終決戦となる「大阪夏の陣」への道筋を築いたのです。大阪夏の陣では、幸村はわずか数千の兵で徳川家康の本陣に迫り、家康をあと一歩で討ち取るところまで追い詰めました。
この戦いで幸村は「日本一の兵(つわもの)」と称賛され、その名は後世に語り継がれることとなります。彼の信念と決意、そして戦術の卓越さは、真田家の武士としての誇りを象徴しています。
現在の上田城は、戦国時代の名残を残しつつ、訪れる人々に歴史の壮絶さを語りかけています。城内には「真田神社」があり、多くの観光客や合格祈願に訪れる学生たちが参拝します。この神社は、真田家の武運長久を祈る場として知られており、上田城と真田家の歴史を今に伝える場所となっています。
特に大阪夏の陣で命を散らした幸村の像が神社の境内に立ち、訪れる人々に彼の決意と覚悟を今も静かに語りかけています。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=ui43H6bdPEI,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]