織田信長がその政治の拠点として選んだ岐阜城。山頂から見渡す絶景や、信長が築いた豪華な館、そして庭園には滝が流れていたという逸話が今でも語り継がれています。この場所で信長が織りなした“おもてなし”には驚くべき話がいくつもあります。今回は、そんな岐阜城の魅力や織田信長にまつわる逸話について、詳しくご紹介していきます。
岐阜城、かつては「稲葉山城」と呼ばれていました。この城は鎌倉時代の1201年、二階堂行政によって築かれたのが始まりです。しかし、戦国時代になると下克上の波に飲み込まれ、斎藤道三がこの城を手に入れることになります。彼は油売りから身を起こし、美濃の守護であった土岐氏を倒し、稲葉山城を拠点に美濃一帯を支配するようになります。
斎藤道三の後、息子の斎藤義龍、さらに孫の斎藤龍興が城主となりましたが、1567年、織田信長がこの斎藤龍興を討ち、美濃を手中に収めます。信長はこの稲葉山城を「岐阜城」と改名し、岐阜の町も新たに築き上げ、楽市楽座の政策を導入するなどして発展させました。これが岐阜城が日本の歴史に名を刻むきっかけとなったのです。
織田信長が岐阜城に滞在していた約10年間、彼は多くの賓客を迎え、特に外国からの使節や宣教師たちには豪華な宮殿とともに、庭園でのおもてなしが行われました。彼らはその豪華さに驚き、信長のもてなしを報告しています。
興味深いことに、信長はただ権力を誇示するだけではなく、賓客に対して自ら食事をよそったりするなど、非常に手厚いもてなしを行っていたという逸話も残っています。
岐阜城の庭園は信長の誇りでもありました。
庭園の中央には大きな岩盤があり、その高さは35メートルに及びました。ここには信長の時代、2筋の滝が流れ落ち、その前には池が広がっていたとされています。この滝と池を囲むように、信長が建てた豪華な屋敷が立ち並び、彼はここで賓客を迎えながら、美しい景観を楽しませたといわれています。
信長もまた、この巨大な岩盤と滝を見上げ、自然と一体となった岐阜城の美しさを心から愛していたのでしょう。滝の音とともに風が吹き抜けるこの場所は、戦国の厳しい時代の中にあっても、信長にとっては癒しの空間だったかもしれません。
岐阜城は金華山の山頂、標高329メートルに位置し、周囲の景色を一望できる絶好の場所に建てられています。
信長は戦国時代の他の大名と違い、日常的に天守閣にいたと言われています。普通の城主であれば、平時には山麓にある館で過ごし、戦時になると天守閣に移るのが一般的でしたが、信長は常にこの天守閣にいたというのです。そこからは、一望できる広大な景色があり、彼はこの地から次々と作戦を立て、日本を統一しようと決意していたのかもしれません。
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