近藤真彦と中森明菜の輝かしいキャリア
近藤真彦は、ジャニーズ事務所に所属する男性アイドルとして、1980年代の音楽シーンを席巻しました。彼のデビュー曲「スニーカーぶる~す」は一世を風靡し、その後も数々のヒット曲を生み出し続けました。ジャニーズの歴史を語る上で、近藤の存在は欠かせないものとなっています。
一方の中森明菜は、その圧倒的な歌唱力と独特の雰囲気でファンを魅了し、松田聖子と並ぶトップアイドルとして君臨しました。明菜のヒット曲は数えきれないほどあり、そのクールでミステリアスなイメージは多くの女性の憧れとなっていました。
二人の交際と衝撃的な自殺未遂
二人の交際が公になったのは、1985年に公開された映画「愛・旅立ち」
1989年、明菜は近藤真彦の自宅で自殺未遂を図ります。彼女は浴室で左肘を切りつけ、大量の血を流して倒れていました。近藤が帰宅すると、泣きじゃくる明菜はただ「ごめんなさい」と繰り返すばかりだったといいます。明菜はこの一件で深刻なダメージを負い、6時間に及ぶ大手術を受けました。
自殺未遂の裏にあった「裏切り」と「二股」
この悲劇の裏には、明菜が近藤に対して抱いていた信頼が打ち砕かれた出来事がありました。
金屏風事件と芸能界の闇
明菜が自殺未遂を起こした直後、ジャニーズ事務所のメリー副社長が真っ先に駆けつけ、事態は一気に彼女のコントロール下に置かれました。明菜は入院し、メリー副社長によって1ヶ月もの間、所属事務所の人間とすら面会が許されなかったのです。その期間、メリー副社長は明菜に「あなたは搾取されている」と吹き込み、独立を促しました。
そして、最も衝撃的な出来事が「金屏風事件」です。年末に行われたこの謝罪会見は、明菜がすすり泣きながら近藤に謝罪と感謝を述べるという異様なものでした。金屏風を背景に、二人の間に婚約が取り沙汰されるような雰囲気が漂いましたが、実際には近藤が彼女を支えるどころか、明菜を完全に利用した形となっていました。
この会見の背景には、ジャニーズ事務所の狡猾な策略がありました。メリー副社長は明菜を事務所から独立させるために、近藤との婚約会見を匂わせて彼女を会場に呼び出し、そこで謝罪会見に持ち込むという計画を実行したのです。表向きは「明菜たっての希望」で行われたとされるこの会見は、実際には彼女を陥れるための罠でした。
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