左幸子さんは1930年、富山県下西川郡朝日町に生まれました。本名は中村幸子。東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)を卒業後、保健体育の教師として働く一方で、演技の勉強を始め、1952年に映画「若き日の過ち」でデビューを果たしました。この作品を皮切りに、彼女は次々と映画に出演し、やがて日本を代表する女優へと成長していきます。
左さんの演技は多くの人々を魅了し、1956年には「神坂四郎の犯罪」で不倫相手を毒殺する狂気のヒロインを演じ、その演技が高く評価されました。
そして、1963年に出演した「日本昆虫記」では、貧しい農村から娼館の女将へと上り詰める女性を力強く演じ、その演技が評価され、翌年のベルリン国際映画祭で日本人初の女優賞を受賞するという快挙を成し遂げました。
左さんの私生活は、映画の中の華やかさとは対照的に、波乱万丈なものでした。1965年、彼女は映像作家の羽仁進さんと結婚し、娘・美代さんを授かります。しかし、結婚生活は順調とは言えず、次第に夫婦間には亀裂が生じます。
さらに追い打ちをかけるように、夫・羽仁さんと左さんの実妹である中村貴美子さんが不倫関係に陥り、後に二人は再婚。
その後、左さんは仕事に逃避するかのように、映画や舞台に積極的に出演し続けました。しかし、彼女の健康状態は次第に悪化し、1985年には胃がんが発覚します。
手術を受けたものの、再発と転移に苦しみ、2001年、71歳の若さでこの世を去りました。彼女の葬儀には、かつて家族だった羽仁進さんや美代さんの姿はありませんでした。
左さんの妹、左時恵さんは、姉がどれほど家族思いであったかを語っています。若い頃、左さんは弟や妹たちの学費を出し、衣服を仕立てるなど、家族を支える存在でした。しかし、その厳しさと愛情は、時に弟妹たちにとって重荷となることもあったといいます。
左さんが亡くなる直前、時恵さんが見舞いに訪れた際、「命がけでやってきなさい」と強く励まされたことが、時恵さんにとって姉の最期の言葉となりました。
左幸子さんは、その類稀なる才能と努力で、日本映画界に数々の功績を残しました。しかし、その裏には、家族との深い確執や裏切り、そして悲劇的な最期が隠されていました。彼女の生涯を振り返るとき、名声と栄光の影に隠れた悲しみと苦しみが浮かび上がります。左さんの作品をもう一度見直し、彼女の歩んだ道を偲ぶことが、私たちにできる最良の追悼であるかもしれません。
この度、左幸子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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