幕末といえば、教科書やドラマ、小説などで描かれた数々の英雄や激動の時代を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、私たちがよく知っているその幕末の物語には、実は誤解や創作が含まれていることも少なくありません。今回は、そんな幕末にまつわる「嘘と真実」に焦点を当て、驚くべき5つの事実を紹介します。
坂本龍馬は、薩摩藩と長州藩を結びつけ、薩長同盟の成立に貢献した立役者として広く知られています。しかし、実際には龍馬が果たした役割は、小説やフィクションによって誇張されている可能性があります。
薩長同盟の真の交渉者は、薩摩藩の家老である小松帯刀(こまつ たてわき)だったと言われています。
龍馬の功績とされている部分も、小松が実際に動いた結果であり、西郷隆盛や大久保利通が補佐役として参加していたに過ぎないというのが実際のところです。
大政奉還の立案に際して、坂本龍馬が作成したとされる「船中八策」は、明治政府の礎となったとよく言われます。しかし、この「船中八策」自体、龍馬が独自に考えたものではなく、彼の師である勝海舟や佐久間象山(さくま しょうざん)などの考えを要約し、まとめたものに過ぎないと言われています。
龍馬の理想的なイメージは、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』によって広められ、彼の影響力が過大評価された結果と言えるでしょう。
実際の坂本龍馬は、維新の流れに大きく関与したわけではなく、第三の道を模索していた一介の志士に過ぎなかったかもしれません。
幕末の志士たちがよく行った「脱藩」は、厳しい刑罰を伴う行為とされ、龍馬もその一人として知られています。しかし、実際には脱藩そのものが必ずしも厳しく取り締まられていたわけではありません。特に幕末期には、経済的な困難や政治的な理由から関所の取り締まりが緩くなり、脱藩しても処罰されることは少なくなっていたのです。
龍馬の脱藩も、実は土佐藩主山内容堂(やまうち ようどう)が勝海舟の説得を受け、容認されていたという背景があります。
彼が長男ではなかったこともあり、家督を継ぐ立場にないことが有利に働いたと言えるでしょう。
「ええじゃないか」という言葉は、幕末に多くの人々が踊りながら叫んだ言葉として知られていますが、この運動自体が実は一部の藩士たちによって先導された計画的なものであったという説があります。特に長州藩や土佐藩の一部が、政治的混乱を引き起こすためにこの狂乱を意図的に煽ったのではないかと言われています。
「ええじゃないか」の騒ぎが広がる中で、坂本龍馬が暗殺されるという出来事も重なり、この狂乱が龍馬の暗殺を計画的に隠すためのものであったという説もあります。
幕末の志士たちが一堂に会した「フルベッキ群像写真」は、明治天皇を含む多くの歴史的な人物が一枚の写真に収められたとして有名です。しかし、この写真には不自然な点が多く指摘されており、特に敵対していた人物たちが一緒に写っていることが矛盾とされています。
現在では、この写真は実際には長崎の学生たちを撮影したものであり、後から歴史的な人物が加えられた合成写真であるという説が有力です。昭和期に雑誌で取り上げられたことで、真実とは異なる「夢の写真」として広まってしまったと言えるでしょう。